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小林須佐男様からのご投稿

(2008年12月2日 11:35)

【中国「大連理工大学」 図書館の“邪馬臺國は意宇出雲国”評価】

邪馬臺國を解明するには「魏書」東夷傅倭人条に記載されている「投馬國」を比定することである。

「魏書」東夷傅倭人条によると、邪馬臺國は「投馬國」の“南”に位置しているのである。
伊都國の南とは記載が無い。

この「投馬國」とは、“東南海中”こと日本海の隠岐國こと島根県隠岐郡島後の良港“都万”であり、邪馬臺國の北門として重要な拠点であったことが解った。

『三國志』巻三十「魏書」三十烏丸・鮮卑・東夷傳倭人条の文脈構成を分析すると、倭國には二つの勢力があり、邪馬臺國連合30カ国と倭奴國(ウィヌ国=アイヌ国)こと狗奴國についての、地理・歴史・交流史・政治・近況情勢・評論などが整然と記載されているのが明らかなのである。

また「隋書」には、『阿蘇山』までは倭國の勢力範囲であることが窺える。
大業4年(西暦608年)には『秦王国』(出雲王朝)に渡来した隋国・答礼使の裴世清たちを迎えに来た倭国の遣使・大禮(官位名)哥多毘たちは、倭國の首都・邪靡堆(現・滋賀県琵琶湖畔の野洲近江王朝)から10日間もかけていた。

従って、『秦王国』(出雲王朝)と邪靡堆(野洲近江王朝)との移動距離は徒歩で10日間かかる事が判断できる。

そして、竹斯國こと筑紫国(北九州)からの東諸国である現在の中国地域、四国、岡山(吉備国)、奈良(大和國)、などは、倭國の首都である邪靡堆(野洲近江王朝)が『皆附庸於倭』統治していた事も記載されている。

原文『都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也』と記載があるように、倭國の首都・邪靡堆(野洲近江王朝)の“呼称”は、『三國志』「魏書」東夷傳倭人条に登場の意宇出雲国の旧都・『邪馬臺』の事であると明記している。

西暦6世紀に登場する倭國の首都・邪靡堆と西暦3世紀に登場していた旧都・意宇出雲国の邪馬臺國が同じ場所では無く遷都していたのである。

※中国の「大連理工大学」図書館には、本書“邪馬臺國は意宇出雲国”が収蔵されており(2008年11月21日確認)文献分類“邪馬台国”を検索すると

1・邪馬臺國は意宇出雲国 小林須佐男著(☆3つ星評価)大成/こばやし出版

2・日本の歴史・倭国の誕生 植木孝次郎著(☆3つ星評価)小学館

3・邪馬台国 松本清張著(☆2つ星評価)講談社

以上の紹介順位であった。

2008年12月2日
小林 須佐男



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