・・・・・・・・・・・俾彌呼思考・・・・・・・・・・・・
俾彌呼(ヒミコ)とは日霊貴(ヒミク)こと天照大御神であり高天原族の巫女である。 大陽神・卑彌呼こと天照大御神は、“高天原”こと中国地方の最高峰・伯耆大山(別名・伯耆大神岳また火神岳)麓の高麗山こと別名・孝霊山・瓦(韓)山麓に建立した日本最大級の弥生時代王国(西暦1世紀後半~3世紀前半)の中心地“妻木晩田遺跡”松尾頭地区一帯(鳥取県大山町・淀江町)において君臨していたものと考証する。 鳥取県こと中世の国名でいう伯耆(ホウキ)国は 「魏書」東夷傳倭人条に記載され11番目に登場する已百支(ミホキ)國であり、意宇出雲・邪馬臺國の東隣接国となる。従って、“高天原”と“邪馬臺國”とは隣接国となる。 この已百支(ミホキ)は、伊馨耆・伊声耆・五百秋など「イホキ」とも呼ばれ、 「イ」は島根半島「伊野(美野)・伊努・伊農」の『イ』。 「ホ」は島根半島東部「美保・瑞穂・水穂」の『ホ』。 「キ」は伯耆国「伊馨耆・伊声耆・伯耆」の『キ』。 など三つの『イ』『ホ』『キ』を併せた、現在の「中の海」と「宍道湖」沿岸を囲む地域の総称を指しているのではと推定する。 即ち、「イホキ」とは意宇出雲の邪馬臺國の勢力圏内と比定する。その後「イホキ」地域が意宇国となり後の八束郡となったものと考える。 俾彌呼こと天照大神は「古事記」上巻・序・神代の条、天の安河原にて、須佐之男命と誓約の儀式を行ったのだが、この時天照大神は、髪形を角髪・美豆羅(みづら)なる男子の髪型に結い直している。 【高句麗種族こと高天原族の角髪(みずら)結い】
角髪・美豆羅(みずら)とは、髪を左右に分けて耳のところで輪状に束ね垂らした男子の髪型をいう。 この、髪型民族の特徴は「古事記」・「日本書紀」で言う所の天津神系海人族と高句麗種族との混合文化圏にみられる。 「日本書紀」巻第9 氣長足姫尊 神功皇后の条にも『即入海洗之。髪自分也。皇后便結分髪而爲髻。(略)』とある。 訳『即ち「海」に入って「髪」を「自分」バラバラにして「洗」い。神功皇后「便」ち「分髪」ミグシを「結」い「髻」ミズラに爲す。(略)』と、神功皇后(天皇)が『男貌』ますらおノかたちに装っているのである。 「古事記」条文には重大な記載がある。『(略)我が國を奪はむと欲(おも)へらくのみ。』と、天照大御神の我が國を、須佐之男命に奪われると考え、男子の髪型角髪に結い直していることである。
我が國とは、地上の國都であり、都郭を戈(カ・ほこ)を以って守ることなのである。 天照大御神の我が國は、架空で抽象的な天上の世界では無い事を「古事記」では証明している。 即ち、我が國とは新羅國系の意宇出雲・邪馬臺國の実質的な大王・須佐之男命の國と隣接している様子が窺えるのである。 「魏書」東夷傳倭人の条には邪馬臺國の(西)斯馬國こと石見国。次(東)已百支國こと伯耆国・鳥取県西部。と、記載している 事から、大山・高麗山麓の弥生王国こと現在の「妻木晩田遺跡」(伯耆国・鳥取県西部。)が、高麗族こと高天原族の王国と比定できる。 【高天原の条件とは】「古事記」・「日本書紀」の記載より考察。 ⑤天の安河原(やすノかわら)がある所。賽の河原が大山「大神山神社」の「阿弥陀堂」付近にある。
⑩「天御領田」が「出雲国風土記」にも登場。天御領田とは、出雲国美談郷に鎮座「彌太彌(みだみ)社」こと「美談神社」の付近、
以上、俾彌呼(ヒミコ)・日霊貴(ヒミク)こと天照大御神は伯耆大山・高麗山麓の弥生王国(現在の「妻木晩田遺跡」)の大陽神として崇められていたのだが、意宇出雲・邪馬臺國の実質的な大王・須佐之男命と結合してから、意宇出雲・邪馬臺國における女王として即位したものと推察する。 西暦247年(正始8年)(夏6月頃と推定)倭国の遣使である載斯(サセ)・烏越(オエツ)等が帯方郡の太守へ狗奴國王・卑彌弓呼(ヒミヒコ)との戦争状況を説明に行くのだが、邪馬臺國に帰国すると卑彌呼は既に死んでおり、大きな塚を造ったとのことである。 卑彌呼が死亡したのは、西暦248年(正始9年)9月5日と判断できる。 その理由として考えられる事は、AD248年9月5日早朝6時頃の皆既日食「オッポルツェル日食3481番」により、太陽神である俾彌呼(ヒミコ)こと日霊貴(ヒミク)・天照大神 が巫女・ シャーマンとして、その神通力を失なった事が大きな要因と思う。 この大事件については「天の岩戸」の神話が証明している。 【天の岩戸隠れ事件】・・・「オッポルツェル皆既日食」番号3481の図
従って、卑彌呼の墳墓は短期間にて築造(工期は3~6ヶ月間に推定。)しており、古墳年代から考察すると、弥生時代後期の“方墳”と比定できる。 邪馬台国機内説に登場する“箸墓”は、3世紀後半・古墳時代発生期の前方後円墳であり、卑彌呼の死亡した年代と墳墓の大きさに整合性がないのである。 日本国内には「鶏塚」と呼ばれているものが数箇所あるが、古墳形状のものは2箇所であろう。 1・島根県松江市大庭町の「大庭鶏塚」。 2・栃木県真岡市京泉の「鶏塚」。 動物埴輪の中で、最も早く出現しているのは「鶏」である。鶏は時を告げる習慣の鳥であることから珍重されたと思う。 神代紀の天岩戸神話にも常世長啼鳥(とこよノながなきどり)が登場しているように、鶏は「死者再生」の機会として墳丘上で時を告げさせる (太陽を昇天させること)意識があったと思われる。 「大庭鶏塚」の東方向の茶臼山・神名樋野(かんなびぬ)から太陽が昇る。 この大庭鶏塚には、太陽神である俾彌呼こと天照大神を埋葬・蘇生させる願いがこめられ、ここに築造されたと考える。 茶臼山の更に東方向を見ると朝日が昇る大山(だいせん)こと伯耆大神岳(ほうきおおかみたけ)古代名・火神岳(ほのかみたけ)が聳えている。 【大庭鶏塚】祭祀場付二段形方墳〔史跡・国指定文化財〕 「大庭鶏塚古墳」 所在地 島根県松江市大庭町茶臼松江市大庭町茶臼山1595。 松江駅の東南方向約4kmの国道432号線沿い「松江大庭郵便局」前に一目で方墳とわかる墳丘が見える。 これが「大庭鶏塚」祭祀場付二段形方墳である。 一辺は42mあり高さは10mと、出雲地方最大級とも言える大型方墳であり、一段目の南と西側には祭祀場跡の造出がある。 築成は古墳時代中期とされているが、古墳内部は不詳であり、原形は弥生時代後期に築造されていたものと推定できる。 魏時代の「歩」は六尺の約1.45m(左右で一歩)。百歩は約145mであり、卑彌呼の墓は『直径約145m余りの塚を有し、百人余りの人が殉葬されている。』とある。
「大庭鶏塚方墳」の直径は42m。南北部の長さが方墳を挟んで全長約152mあった。 意宇出雲・邪馬臺國の神山である「茶臼山」こと「意宇・神名火野」の裾野(丘陵地端)を削って、この「大庭鶏塚」墳墓が築成されており、昭和初期頃までその形状が残っていた。 この「大庭鶏塚」の幅員が広いところで約100mも在ったと言う。「大庭鶏塚」方墳の北側(現在・田畑)は約20mあり、南側(現在・国道432号線道路と住宅地)は約90mもあった。「茶臼山」こと「意宇・神名火野」は、意宇出雲・邪馬臺國に入港する目印であり、シンボルでもあった。 そして南方向には意宇海と「天馬」船着場が在った。「大庭鶏塚」の「径」長さは周湟を含め約152mと推定する。 「おおば風土記」著者の荒川勲氏は『現在でも「大庭鶏塚」北側には環濠の跡が長さ約20m・幅4mがある。』と述べている。 従って「大庭鶏塚」は「東夷傳」倭人条に記載の『径百餘歩』と合致する。 意宇出雲・邪馬臺國における俾彌呼の墓陵はここの「大庭鶏塚」しか該当しないと思う。 「大庭鶏塚」の形状が祭祀場をもつ二段築成であり、周湟があった墳墓という国内でも特殊な「方墳」であり、日本考古学史上初めて名付けた前方後方墳・山代二子塚より古いので、元々の原型は高天原族・最高実力者のもと考えられる。
高天原族・頂点の神とは天照大神すなわち俾彌呼の墓陵「大庭鶏塚古墳」と推察する。 2008年4月8日 小林 須佐男 |
邪馬台国発見
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(2008年4月9日0:01)