小林須佐男様からのご投稿
(2008年3月23日21:25)
みんなで古代史を考える会
西山恒之 様
【質問】
3)同じく邪馬臺国について (略)では、御説で『邪馬臺國は、意宇出雲国』とされているのはいつ頃からいつ頃までのことなのでしょうか。
4)野洲近江王朝について
5世紀以降に、琵琶湖南岸に、この列島の都が存在していたとの御説ですが、そうなりますと、出雲に匹敵するか、あるいはそれを凌ぐほどの遺跡や痕跡が残されていても不思議ではありません。
しかし、琵琶湖南岸にそのような遺跡やあるいは古墳群といったものを私は存じ上げておりません。 もし、その野洲近江王朝に相当する痕跡といったものがあるようなら、文献等も含めてお教えください。
【質問 3)同じく邪馬臺国について】の解答・説明
意宇出雲国こと邪馬臺國が“天地の分れ”として「出雲国風土記」と「古事記・神代巻」そして「隋書」列傳東夷俀國条に記載されており、意宇出雲国の邪馬臺國が“邪馬・天・兄・”こと須佐之男命と“臺(秦)・日・弟”こと大国主命の双頭政治として体制を表記している。 即ち、兄(天)である須佐之男命は「意宇国」の東出雲国「熊野大社」を政治の拠点としており、弟(地・日)の大国主命は西出雲国「杵築大社」こと「出雲大社」にて政治の執行をしていたものと比定できる。 西暦248年(正始9年)に卑彌呼が死亡してから、難升米こと須佐之男命が卑彌呼の宗女・臺與こと櫛稲田比売命《別名:久志伊奈太美等與麻奴良比売命(クシイナダミとよマヌラひめノみこと)》と結婚して実質的な倭國の大王となる。 その後、大国主命を見込んだ須佐之男命は、天照大神(俾彌呼)との間にできた多紀理比賣命(たきりひめ)との結婚を認める。 即ち、須佐之男命(難升米)が、大国主命に対して政治の実権を割譲した事を意味している。 多紀理比売命(田心姫命)こと、別名:奥津嶋比売命またの名・天甕津日女命(あまノみかつひめ)との間には味鉏高彦根命こと別名:加茂(鴨)大御神が誕生する。 ※“大御神”と呼ばれるのは、天照大御神と加茂(鴨)大御神の2神である。 須佐之男命の孫にあたる味鉏高彦根命こと加茂(鴨)大御神が『後漢書』に記載登場している“大倭王”と考えられる。 以上の流れから、西暦300年頃には、既に邪馬臺國の勢力範囲が佐渡国・石川・富山・新潟・群馬・埼玉の各県に渡っていた事が考察される。 この裏付けとして、「出雲大社」所蔵の“出雲族波及推定地区”分布図に表記されている。 当然、倭国の中心地は、『三国志』「魏書」東夷傳倭人条の26番目に記載があり登場している“躬臣(クオミ)國”こと近江(オウミ)国(淡海)そして湖国と呼ばれた現在の滋賀県が最適となる。 古代から明治時代以前まで、日本海が海上流通の中心であり、近江(淡海)国・琵琶湖を通じて淀川経由にて大阪方面へと物資が運ばれていた。また、近江(淡海)国・琵琶湖は東海道・東山道(中山道)・北陸道の合流地域でもあり、陸上流通の要衝でもあった。従って、日本海・太平洋・瀬戸内海など三方への流通動脈の心臓部とも言える。 戦国時代には、織田信長が近江盆地(滋賀県蒲生郡安土町)に“安土城”を建築していた事から考えても、、いかに近江(淡海)国が日本列島の要であり重要な拠点であることが明白である。 安土城跡の付近には、佐紀古墳群の1つ「瓢箪山古墳」があり、前方を南に向けた前方後円墳で、墳丘の全長96m、後円部径60m、同高さ10mで、前方部幅45m、同高さ7mと滋賀県では最古最大の古墳である。 墳丘の形態等から古墳時代前末期~中期初頭、すなわち、4世紀末~5世紀初頭の古墳でないかと推定されている。 また、弥生時代の“銅鐸”が琵琶湖南の野洲川流域中主町・守山市から合計34個出土している。 その内、野州町小篠原大岩山(三上山左側)からは24個の出土があり、その中の1個は日本一の大きさを誇る巨大な銅鐸であり、最大の高さ134.7Cm。重さ45.47Kgである。 琵琶湖南の滋賀県野洲郡野洲町・中主町一帯の三上山麓に「御上神社」が鎮座。祭神は「天御影命」(あめノみかげノみこと)である。 天御影命とは、天照大神(俾彌呼)と須佐之男命の孫であり、別名・天目一箇神(あめノひとつノかみ)・忌火神(いみびノかみ)・二火一水(にかいっすい)神とも言う。 即ち「御上神社」祭神・天御影命とは、意宇出雲・邪馬臺國と鳥取県伯耆国こと已百支國・高天原の大神である。 この様に琵琶湖東南部には、前方後方墳や銅鐸の出土そして「志賀高穴穂宮」址などの物的史実が存在している。 そして「三上山」こと「近江富士」またの呼称「御上山・三神山・御影山・百足山」は、神霊山として崇められている。 霊峰を御神体としている風習は、意宇出雲国・邪馬臺國の茶臼山や鳥取県伯耆国(已百支國)高天原の最高峰伯耆大山と大和国の三輪山そして信濃国「諏訪神社」の守屋山などの風習と同様である。 結論として西暦4世紀には、倭國の中心地は、意宇出雲の邪馬臺國からの躬臣國(現在の滋賀県・京都府・大阪府)こと近江(淡海)国・琵琶湖東の首都“邪靡堆”野洲近江王朝(仮称)に遷都したものと考察する。 【質問 4)野洲近江王朝について】の解答・説明 出雲に匹敵する古墳遺跡と意宇出雲・邪馬臺國系の神社などが下記の通り現存しておりますのでご参照として下さい。
【白鬚神社】 近江国最古大社「白鬚神社」が、琵琶湖西の滋賀県高島郡高島町鵜川215に鎮座。 祭神は猿田彦大神であり、意宇出雲国「佐太神社」正中殿の御祭神佐太大神と同一の大神である。 本殿と拝殿は、国道161号を挟んで大鳥居の向かい側に建立。 古くから「近江の厳島」また「白鬚さん」そして「白鬚明神」・「比良明神」とも呼ばれていたので新羅国系意宇出雲国人の居住地であった様に思う。 ※滋賀県高島郡三尾野からは継体天皇が誕生しており、御母は振姫と言われ越前国坂中井の娘である。 【多賀大社】 琵琶湖東の滋賀県犬上郡彦根市多賀町に「多賀大社」が鎮座地しており、主祭神は日本国土と大八洲創造の大祖神である伊邪那岐命と伊邪那岐命である。「古事記」には『伊邪那岐神は淡海(おうみ)の多賀になも坐ます』と、記載がある。 「多賀大社」の創建も意宇出雲・邪馬臺國と邪靡堆「野洲近江王朝」との密接な繋がりがあったのだろう。 何故なら、祭神が、伊邪那岐大神と伊邪那美大神であるから。 この両大神を祀る大社(おおやしろ)は、祖国・意宇出雲国の大社に優るとも劣らない歴史と規模を思わせる。 【小野妹子】 |