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2008年2月25日付のご質問に対するご解答を下記にてご説明を致します。

【質問その1
しかし、一方、『隋書」においては「魏書」の『邪馬壹國』とは『邪馬臺國』の事であると明確に表記している』(2008年2月19日PM8:31)、また、『結論として「邪馬壹國」と「邪馬臺国」は同国と判断できる。』(2008年2月25日AM 3:21)とも述べておられます。
あるいは、『西暦248年頃の邪馬臺國『女王』俾彌呼』(2008年2月25日AM 3:21)との認識も示しておられます。
 
魏書にあっては、卑弥呼の女王国である『邪馬壹國』は、伊都国から南に位置しているとありました。つまり、九州です。
また、同じく魏書で、『女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種』と記され、後漢書では『自女王國東度海千餘里至拘奴國。雖皆倭種、而不屬女王。』と、卑弥呼の国から海を渡って東にも国はあるが卑弥呼には属していないとあります。
そのどちらの書においても、卑弥呼の居た女王国(邪馬壹國)は、九州限定の勢力として描かれています。
ところが、御説のように、『邪馬壹國』が『邪馬臺國』の事であったり、その両国が同国だとしますと、さらに卑弥呼が邪馬臺國の『女王』だとしますと、卑弥呼は九州に居りましたから、九州にあった邪馬臺國の『女王』となってしまいます。
御説では、『九州・邪馬台国説は成立しない』とありますが、逆に、『九州・邪馬台国説は成立する』ことになってしまいます。 よく理解できません。

【質問その1の解答】
『三国志』「魏書」東夷傳倭人条に記載がある国名
『邪馬壹國』は、後世の中国古代史書には再登場の記載が無く、概ね『邪馬臺國』と記載されており、「魏書」に記載の『邪馬壹國』とは『邪馬臺國』と同国であるものと比定できます。

※『三国志』編纂の陳寿は「魏書」条文においては、“国名”表記に『
』の文字使用は見当たりません。(人名に字(あざな)『』こと『王観』の記載が一箇所あります。)東夷傳倭人条には、人名『』ですら『』に表記しているのが大きな特徴です。
また、「呉書」においては、西戎族国出身「羌人」字(あざな)『』に変歪させていたものを「中華書局」編集部は「續後漢書」巻五十三・郝經著「校記」を基に訂正していることが明らかです。

西山さんが主張している、俾彌呼時代の西暦238年(景初2年)頃に、『大倭王』が存在していたとしたら、女王俾彌呼の國『邪馬壹國』と『大倭王』の國『邪馬臺國』との二つの國が紹介され、倭國の首都と言える『大倭王』の國『邪馬臺國』の記載が当然に記載されるべきでしょう。
「魏書」東夷傳倭人条に『王』の記載・表記があるのは、『女王』俾彌呼の國『邪馬壹國』こと『邪馬臺國』と伊都國『王』の二王です。
『邪馬壹國』こと『邪馬臺國』は、日本海沿岸の意宇の国(現在の東出雲)であり、『邪馬臺國』から『東度海千餘里至拘奴國』の条文に登場する『狗奴國』とは『アイヌ国』を説明しており、出雲国から日本海の東方千餘里
こと約500Kmに位置する現在の能登半島石川県・富山県・新潟県・そして関東諸県など以東を表記しているものと判断できます。

西山さんの質問に魏書にあっては、卑弥呼の女王国である『邪馬壹國』は、伊都国から南に位置しているとありました。』と記載がありますが、「魏書」東夷傳倭人条には、
女王國卑弥呼の『邪馬壹國』こと『邪馬臺國』は『投馬國』の“南”と記載されており、伊都国から南』との記載はありません。
『邪馬壹國』こと『邪馬臺國』は『投馬國』の『と記載されております。
焦点となる
『投馬國』を比定することの方が『邪馬臺國』の所在究明する上では賢明かと思います。


【質問その2】
あるいは、范曄の「後漢書」東夷列傅倭条の編纂時の445年頃には、既に倭國の首都が“邪靡堆”、現在の滋賀県琵琶湖南岸に遷都していたとの認識も示されておられます。
范曄は、446年に亡くなっていて、
後漢書は432年に完成されたとなっています。そうしますと、 430年以前には遷都が行われていたことになります。
どうして遷都することになったのでしょうか。

【質問その2の解答】
後漢書」の成立は西暦432年の後漢滅亡から200年以上が経ってからのことであり、西暦432年の時点ではまだ「志」が書かれておらず、未完成であった。
そして范曄は書き終えないまま劉義康擁立事件に関ったことで処刑され、後に南朝の劉昭が未完成『後漢書』に東晋の司馬彪が書いた『続漢書』の「志」を合刻した
現在伝わるのは後述の李賢注に『続漢書』の「志」を合刻した北宋代(西暦960年~1127年)の版本が元である。
後漢がまだ存続していた時から書かれた同時代史書である『東觀漢記』、東晋の袁宏の手による『後漢紀』など、その他にも数多くの史書が存在していて、これを八家後漢書(あるいは七家)と呼んでいる。

など、西山さんが主張している
後漢書は432年に完成されたとなっています』と断定するには無理があると思います。
『大倭王』とは、西暦445年前の“倭国の五王”時代に登場する『
と推察します。
即ち、西暦600年(隋・文帝の開皇20年)『隋書』に登場する
倭國王、姓・阿毎、號・阿輩雞彌字・多利思北狐こと用明天皇。別名、橘豊日天皇こと池邊天皇祖先である葛城山「神の化身」葛城一言主大神こと阿遅須枳高日子命、別名・迦毛(鴨)大御神を『大倭王』と考えております。
何故なら、日本の神様の中で“大御神”と呼ばれたのは、天照大御神と葛城一言主大神こと迦毛(鴨)大御神の2神しかいないからです。

この様に、紀元6世紀頃までは、意宇出雲・邪馬臺國の須佐之男命素盞鳴尊)→大国主命葛城一言主大神こと迦毛大御神(阿遅須枳高日子命)継体天皇(躬臣國こと後の淡海国・近江国高嶋郷三尾野にて誕生)と続き、『隋書』に記載されている「靡堆」の野洲近江王朝(仮称)倭國王、姓・阿毎、號・阿輩雞彌
字・多利思北狐こと
用明天皇、別名橘豊日天皇こと池邊天皇そして
聖徳太子へと倭國の本流は『邪馬臺國』出雲王朝を
祖としていた出雲系国王の勢力であったものと
推察しております。

後の大和朝廷は、『邪馬臺國』出雲王朝を抹殺・消去する為に、日本の歴史を『古事記』『日本書紀』などによって、改竄・変歪させ、恰も大和朝廷の祖が日本国を
創生・建国
させたものと創作したと考察すべきでしょう。
※最近の風潮として“聖徳太子はいなかった”等の論述が蔓延しつつある傾向です。何故なら、聖徳太子の存在をより明確に究明すると、日本建国の開闢が
神祖・須佐之男命こ別名・熊野大神櫛御気野命を主祭神とした出雲國一「熊野大社」こと古代社名『日本火出初社ひのもとひでぞめやしろ)』(鎮座地:島根県八束郡八雲村熊野)に行き着くからです。

「梁書」「北史」の条には『復立卑彌呼宗女臺與爲王。其後復立男王、並受中國爵命。』と記載がある。
この和訳は『卑彌呼宗女臺與の次に男王(須佐之男命)が回復即位した。しかも中国皇帝(西晋)武帝より『爵』の命名を受け賜わった。と明記されており、
「北史」には『江左歴晉、宋、齊、梁、朝聘不絶。及陳平(略)』と記載が見られ、この和訳は『「江」長江・江水・楊水江「左」下流南岸域四王朝「東晋・宋・齊・梁」を履歴したが倭國王の「朝聘」爵命は陳王朝が平定されるまで絶えず。』と記載がある。
即ち、邪馬臺國女王卑彌呼の宗女である二代目女王臺與から“倭国の五王”時代に登場する五番目の『武王まで(西暦580年頃)三百年間以上の長期に渡って邪馬臺國
女王から邪靡堆の倭國王は、中国の歴代皇帝に朝献しており倭國王の「爵命」も継続していたのである。
この「爵命」とは、倭国の五王時代に見られる六國諸軍事の倭國王「安東大将軍」と思われる。
武王』に至っては爵命・倭國王、六國諸軍事の号「鎮東大将軍」そして「征東大将軍」と昇進している。

「新唐書」には『其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲(略)』と記載があり、『阿毎王・
阿輩雞彌多利思比狐こと用明天皇が「
初主」日本国の開祖天御中主神であると自ら言い、彦瀲神まで至る。』と表記されている。

また『(略)居筑紫城。彦瀲子神武立、更以「天皇」為號、徒治大和州。』と、『阿毎王・
阿輩雞彌
多利思比狐こと用明天皇は「筑紫城」こと、後世にみられる明・清両代の“禁断の皇宮”という「紫禁城」のように、皇居「筑紫城」を築造のうえ居住している。彦瀲神の子、神武が立ち、更に天皇を以って号として日本国の一つ「大和州」に移って統治した。』との表記である。

「舊唐書」旧唐書列傳東夷日本の条文『其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。』
解釈『日本國からの入朝者が、自分(倭國)が大きいと自慢をしているが、事実とは違う。だから中国側は疑問をもった。』にも見られる。
阿毎王・多利思比狐こと用明天皇の遣隋使が文帝へ上朝の時に、自国(國)を馬鹿にされまいとして『王は隋国に劣らない位の大王である。』などの旨を、鼻高々と自慢げに伝えた場面と似ている。阿毎王は、自分を尊大する性格の持ち主の様に思われ好感がもてる。

「古事記」は天之御主神に始まり、豊御食炊屋比賣(推古天皇)で終わっている。完成は西暦712年(元明・和銅5年)正月28日とされており「日本書紀」は西暦720年(元正・養老4年)に成立という。
即ち「古事記」「日本書紀」が刊行する百余年前の西暦600年(文帝・開皇20年)頃には、阿毎王・多利思比狐こと用明天皇が「天之御中主神」を名乗った、と言う記録の方が遥かに昔なのである。

以上、紀元6世紀頃までは、意宇出雲・邪馬臺國の須佐之男命素盞鳴尊)→大国主命葛城一言主大神こと迦毛大御神(阿遅須枳高日子命)継体天皇(躬臣國こと後の淡海国・近江国高嶋郷三尾野にて誕生)と続き、『隋書』に記載されている「靡堆(仮称)野洲近江王朝の倭國王、姓・阿毎、號・阿輩雞彌字・多利思北狐こと用明天皇、別名橘豊日天皇こと池邊天皇そして聖徳太子へと倭國の本流は『邪馬臺國』出雲王朝を祖としていた出雲系国王の勢力であったものと比定しております。
後の大和朝廷は、『邪馬臺國』出雲王朝を抹殺・消去する為に、日本の歴史を『古事記』『日本書紀』などによって、改竄・変歪させ、恰も大和朝廷の祖が日本建国をさせたものと創作したと考察すべきでしょう。
※最近の風潮として“聖徳太子はいなかった等の論述が蔓延しつつある傾向です。何故なら、聖徳太子の存在をより明確に究明すると、日本建国の開闢が
神祖・須佐之男命こと別名・熊野大神櫛御気野命を主祭神とした出雲國一宮「熊野大社」こと古代社名『日本火出初社ひのもとひでぞめノやしろ)』(鎮座地:島根県八束郡八雲村熊野)に行き着くからです。



【質問その3】
 『430年以前には遷都が行われていたことになります。どうして遷都することになったのでしょうか。
 それは、出雲からの遷都ということでしょうか。  どちらにしても、御説の『邪馬臺國は、意宇出雲国』と矛盾することにはなりませんでしょうか。
 
【質問その3の解答】
後日、掲載いたします。



【質問その4】
5世紀以降に、琵琶湖南岸に、この列島の都が存在していたとの御説ですが、そうなりますと、出雲に匹敵するか、あるいはそれを凌ぐほどの遺跡や痕跡が残されていても不思議ではありません。 しかし、琵琶湖南岸にそのような遺跡やあるいは古墳群といったものを私は存じ上げておりません。
もし、その野洲近江王朝に相当する痕跡といったものがあるようなら、文献等も含めてお教えください

【質問その4の解答】
後日、掲載いたします。

2008年3月9日
小林 須佐男



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小林須佐男様からのご投稿

(2008年3月9日10:36)