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)卑弥呼と邪馬臺国について
「隋書」81巻次・列傳第四十六東夷倭國条】
原文『(略)其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。其地勢東高西下。
都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。(略)』と、記載がある。
【「隋書」列傳東夷倭國条の解釈】
『倭国の国境は東西の間が五ヵ月の距離。南北の間は三ヵ月の距離。どちらでも海に着く。
地勢は東が高く、西が低い。(山麓のようである。)倭國の都は邪靡堆(水中の丘)にある。
即ち「魏志」には謂う邪馬臺と(記載)ある。』と、この記載から判断すると、倭國の地形が東西に面長な形状である。倭国の都・邪靡堆(やまたい)とは、海や湖など水辺に建立していることを表している。
倭國の国境東西の間が五ヵ月の距離ということは、東・富士山手前の奴國こと信濃国(現・長野県)から西・日本列島の北九州諸国や朝鮮半島の狗邪韓國までに相当する距離と考える。
下記の「魏書」東夷傳倭人条には倭國の勢力範囲が表記されている。
原文『(略)參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。』
訳『倭の地を問えば、海中(日本海)の洲島の上に点在し、或いは離れ或いは連なり、周囲は五千余里(約2500Km)。』と、日本海より見た倭國の形状を説明をしているものと解釈する。
『海中(日本海)洲島の上に点在している。』とは、対馬島・壱岐島・北九州諸国・隠岐島・島根列島など日本海側の『洲島』を説明しており、その勢力範囲は、太平洋・瀬戸内海沿岸の諸国を含め約2500Km周囲に及ぶ事を表記している。
即ち、倭國の邪馬臺國連合30ヵ国が、この勢力範囲である約2500Km内に該当することになる。
また『土地膏腴、水多陸少。 』訳『「土地」地形は「膏腴」女性の体線のように豊かで高い山並み
(琵琶湖周囲の山並)水多く陸少い。』と、近江(淡海)国こと琵琶湖の地理的形状を表記している。
「隋書」東夷倭國条を理解すると都・邪靡堆が海の無い奈良盆地や、大湖の無い九州内陸とは有り得ない。
原文『都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。』
『倭國の都は邪靡堆にあり、「魏書」に記載されている邪馬臺という所。』との意。
ここの文脈での邪馬臺とは、都の名称“邪靡堆”と同じ呼称であることを表記しており、都名“邪靡堆”と國名“邪馬臺”とは同じ場所ではないものと解釈する。
論争の
『南至投馬國,水行二十日』について
①不彌國から投馬(トマ→ツマ・都万)國まで南に(後世の隋書には「東至秦王國」こと出雲王朝と記載)舟で航行すると20日で行けると記載があるのだが、当時はトモド(殿謄戸)舟・ほかけ舟・はにわ舟などを使い航行しており、この条文に従って北九州から東廻りの航路にて南下するには、関門海峡と豊予海峡(豊後水道)を乗り切らなければならない。
特に豊予海峡は、急流うずまく速吸瀬戸と呼ばれ、大分県北海部郡佐賀関町佐賀関半島地蔵関崎と愛媛県宇和島郡三崎町佐田岬間の海域を言い、豊予海峡こと速吸瀬戸を南下航行するには逆流になり現在でも至難と聞く。
当時のトモド舟・ほかけ舟・はにわ舟などにての航海は不可能だったように推察する。
【関門海峡】について・・・海上保安庁第七管区「海の相談室」の説明。
某氏談『関門海峡(早鞆瀬戸)において、下関(壇ノ浦)の高潮(満潮)時には西流最強であり、低潮(干潮)時には東流最強となります。』
『本日は(2004年6月3日)大潮であり約10ノット(時速約20Km)。日本でも第3位の潮速です。
近代船でも前に進まない事がある。』(1ノットは時速1・852km)『瀬戸内海でも、満潮と干潮の差が大きく数mある。瀬戸内海の沿岸より少しでも離れると難破する。』との説明。
従って、準構造船においても、関門海峡(早鞆瀬戸)を南下する事が至難と判断できる。
【関門海峡の潮】
関門海峡の潮流は、とても速く鳴門(なると)海峡、来島(くるしま)海峡に次いで国内3番目。
早鞆瀬戸(はやともノせと)・壇ノ浦の干潮時は東流が最も速くなる。
満潮時では、西流が最も速くなります。満潮と干潮は1日に2回あり、東西の潮流も規則正しく1日2回づつある。
『逆潮流の時には、現在の
近代船でも航行を止めることがある。』と、
海上保安庁第七管区「海の相談室」からの説明があった。
【豊後水道・豊予海峡こと速吸瀬戸】
「大分県漁業協同組合佐賀関支店」岡本支店長に「豊予海峡」について尋ねてみた。
『豊後水道の豊予海峡こと速吸瀬戸は、潮の流れがとても速く波も高いので、昔の舟(丸木舟など)
での航行は危険であり難しい。』と述べてくれる。そして『引潮(北→南)と満潮(北←南)そして大潮がある。
潮流が6時間ごとに変るため、潮をよく見ないと一直線での南下(大隈半島方向への)は簡単にはいかない。』との説明であった。
「宮崎県漁業協同組合」某氏に日向灘の潮について尋ねてみた。
『日向灘沿岸での潮流は、南方から上がるが、北方からの潮流は無いですね。北方からの航行は逆流となりますので、まずあり得ないでしょう。』
『沖の方では、日によって下り潮と上がり潮がありますが、それが何時なのか全く解りません。
今日あったからと言って明日あるとは限りません。』との説明を受ける。
「佐賀関半島関崎」土産店主の説明。
『豊後水道・豊予海峡の潮流れはとても速く、特に引き潮時には白波が立ち、川のように、ジャージャーと音を発て流れます。潮流速度は6.5ノットです。』
『また、大潮(満潮と干潮の水位差)が、月に2回(1日と15日ころ)あり、潮流速度は12~13ノットです。
それに、渦巻きが発生すると、舟が立ち吸い込まれてしまい、残骸は上がらないです。
おまけに、南風が吹くと三角波が立ち、舟は転覆します。』と、速吸瀬戸に指を差して説明をしてくれる。
※大潮とは、満潮と干潮の水位差のことであり、新月と満月のときにおきる。小潮とは半月のときのこと。
豊予海峡は、大分県佐賀関半島関崎と愛媛県佐田岬の間にあり、海峡は狭く潮流が速いため速吸瀬戸と呼ぶ。
急流に身をもむ鯛などの好漁場であり、関アジや関サバが有名 。
特に、漁師言葉でホゴ瀬と言われる高島沖に魚が棲み着いており、海底の潮流もとても速い。
以上の点から『かなり熟練の漁師でないと、ここの豊予海峡(速吸瀬戸)は危険水域なので舟を出せない
とのことです。』と、「佐賀関半島関崎」土産店主の説明があった。
従って、北九州から東廻りの航路にて南下する航行は不可能と判断できる。
また、不彌國から水行20日で南・投馬國に至る。さらに南へ水行10日または陸行一月で邪馬臺國に至る。
など邪馬臺國に行くために、水行20日+水行10日の航行をとると薩摩半島を超え沖縄諸島までに到達するだろう。
また、陸行一月もかけて九州内陸を縦断すると南部の薩摩半島に到着するだろうし、陸行一月もかからないだろう。
この様に、地理的・物理的に整合性が無く『南至投馬國,水行二十日』には現実的に成立しないと思う。
②西廻り南航行をとった場合、舟は長崎県から南に向かうことになり、わざわざ「伊都國」「奴國」「不彌國」まで来なくても「末盧國」から直接、投馬國や邪馬臺國に行けるのである。
従って、南至投馬國への南航路東廻はとても危険であり航行は難しく、西航路も不自然でもあるため、
『南至投馬國,水行二十日』の表記は、羅針盤航行をとらないかぎり、航路方位の誤りか作為的に変歪したものと考えられる。
自然科学的に推察すると、対馬暖流と南西の季節風に乗って航行すると、旧暦の5・6・7の3ヶ月には
隠岐島都万(投馬國)に漂着する。この時期の潮流はとても複雑であり、まさに「魏書」東夷傳倭人条に
記載の『乍南乍東』である。
この潮流について、海上保安庁第七管区「海の相談室」に問い合わせると『説明がとても難しいですね。』と返答。
何故、倭國の中心国である邪馬臺國の方位を「南」に修正(陳寿なのか後世の写本時か不明)したのだろうか。
やはり、魏国が呉国に対する軍事戦略として、遠交近攻の策をとったものと考える。
三国鼎立の戦乱期に、自国の同盟国である「倭國」の正しい情報を、その認識が無い敵国の「呉国」などに、わざわざ知らせるものとは思えない。
同盟国の位置や軍事力を示す人口などの数値は「魏国」にとっては重要な国家機密と思う。
敵国であった「呉国」の背後に位置する東海に
「魏国」の同盟国である「邪馬臺國」があると情報を公開した情報戦略と推察する。何故なら、「呉国」は北に位置する
「魏国」へ対して大軍隊による攻撃ができなくなり背後にも軍事力を待機しなければならないからである。
【邪馬臺國連合30ヵ国の勢力範囲】
『三国志』「魏書」東夷傳倭人条に記載の邪馬臺國連合30ヵ国の勢力範囲とは、倭国本土・東北境界は「富士山」であり、西南境界は「阿蘇山」までと比定する。
【女王俾彌呼・邪馬臺國連合30ヵ国名記載順次列挙の表】
順位 |
連合国名 |
古代の呼称 |
中世の国 |
中世呼称 |
現在県名と補足注釈 |
1 |
狗邪韓國 |
クヤカン |
意富加羅 |
イフカラ |
慶尚南道「釜山」から「三千浦」あたり。
洛東江沿岸が境界。 |
2 |
対馬國 |
ツマ |
対馬 |
ツシマ |
長崎県対馬。 |
3 |
一大國 |
イキ |
壱岐 |
イキ |
長崎県壱岐。 |
4 |
末盧國 |
マツラ |
松浦郡 |
マツウラ |
長崎県松浦市付近。 |
5 |
伊都國 |
イト |
糸島郡 |
イトシマ |
佐賀県唐津市から糸島郡付近。 |
6 |
奴國 |
ヌ |
博多那津 |
ナツ |
福岡県(筑前那珂郡)付近。福岡市博多区板付あたり。 |
7 |
不彌國 |
フミ |
宇彌 |
ウミ |
福岡県糟屋郡宇美町から宗像郡あたり。 |
8 |
投馬國 |
トマ |
隠岐都万 |
オキトマ |
島根県隠岐郡都万村。 |
9 |
邪馬〔臺〕國 |
ヤマタイ |
意宇出雲 |
イウイヅモ |
島根県松江市大庭町「大庭太宮」・山代町「伊弉諾尊の宮」。神名樋野(茶臼山)が中心地。 |
10 |
斯馬國 |
シュマ |
岩見 |
イワミ |
島根県太田市の西部を石見(イワミ)国。
|
11 |
已百支國 |
ミホキ |
伯耆 |
ホウキ |
鳥取県伯耆大山麓の東伯郡・西伯郡・日野郡・会見郡夜見島と島根県能義郡・八束郡。 |
12 |
伊邪國 |
イヤ |
因幡 |
イナバ |
鳥取県因幡国「因幡の白兎」。 |
13 |
都〔郡〕支國 |
クシ |
越 |
コシ |
福井県敦賀市(越前)。大国主命時代からは富山県(越中)・新潟県(越後)と石川県(能登)。 |
14 |
彌奴國 |
ミヌ |
美濃 |
ミノ |
岐阜県美濃国。 |
15 |
好古都國 |
ナコト |
長門 |
ナガト |
山口県長門市。 |
16 |
不呼國 |
フオ |
周防 |
スオウ |
山口県防府市。 |
17 |
姐奴國 |
シヌ |
伊豫 |
イヨ |
愛媛県姐奴と伊豫の二名の地名国。 |
18 |
対蘇國 |
ツサ |
土佐 |
トサ |
高知県土佐国。
|
19 |
蘇奴國 |
サヌ |
讃岐 |
サヌキ |
香川県讃岐国。
|
20 |
呼邑國 |
アパ |
阿波 |
アワ |
徳島県粟(アワ)国。 |
21 |
華奴蘇奴國 |
カヌサヌ |
遠江岩田 |
オオミイワタ |
静岡県遠江磐田郡。 |
22 |
鬼國 |
キ |
尾張大桑郡 |
オワリ |
愛知県尾張丹羽郡大桑郷。 |
23 |
為吾國 |
イカ |
伊賀 |
イガ |
三重県桑名市伊賀町。 |
24 |
鬼奴國 |
キヌ |
紀伊 |
キイ |
和歌山県新宮市木の川(紀ノ川)。 |
25 |
邪馬國 |
ヤマ |
大和 |
ヤマト |
奈良県大和郡山市(古代額田郷)。 |
26 |
躬臣國 |
クオミ |
近江 |
オウミ |
滋賀県近江国琵琶湖周囲。犬上郡多賀町「多賀大社」・
三上山麓の中主町・野洲町・守山市一帯。 |
27 |
邑利國 |
ハリ |
播磨 |
ハリマ |
兵庫県播磨国。 |
28 |
支惟國 |
キビ |
支(吉)備 |
キビ |
岡山県備前国・備中国。 |
29 |
烏奴國 |
オヌ |
安芸安那郡 |
アキアナ |
広島県備後国。 |
30 |
奴國 |
ヌ |
信濃 |
シナノ |
長野県信濃国一之宮「諏訪大社」。 |
|
狗奴國 |
クヌ |
委奴 |
ウェイヌ
(アイヌ) |
富士山東北の相模国・武蔵国・上野国・下野国など毛人国
(アイヌ国)男王卑弥弓呼。 |
以上、邪馬臺國連合30ヵ国の国名表記が「魏書」東夷傳倭人条に極めて整然とブロック別・順次に記載されている。
『陳壽の記載特徴は東夷傳「倭國」以外の六ヵ國の説明にも、国と国の位置関係が順次に記載されているように思う。
『東至投馬國,水行二十日』に比定すると、
必然的に『南至邪馬壹國』こと『邪馬臺國』後世の『東至秦王國』出雲王朝に到達するのである。