唐王朝による列島征服の軌跡
改竄された列島の歴史

 中国には、『史記』以来『中国24史』と言われるほど数多くの史書が残されています。それは、同時に、それだけの王朝の交代があったことをも意味しています。滅んだ王朝の歴史を次に興きた王朝が書き残してきました。そこには、自らの正統性を誇示するものであったという側面もあるのでしょう。
 一方、隋の時代、2代にわたる皇帝もその東に位置する『高句麗』遠征に出かけるもことごとく失敗に終わっていました。あるいは、それが隋王朝滅亡の原因を作ったとも言えます。そして、唐王朝第2代皇帝太宗、李世民も644年に高句麗遠征を行っています。この隋・唐王朝の度重なる攻撃を撃破していた高句麗に対し、第3代皇帝高宗李治の時代にも、さらにその征服が企てられます。
 そういった時代背景の下、太宗の頃に、隋書、梁書、晋書などが編纂されています。
 太宗は、すぐに怒ってしまう気の短い人だったそうですが、その側近であった魏徴は、癇癪を起こした太宗を2百回余りもなだめており、魏徴が亡くなった時、太宗は大いに悲しんだと言われています。魏徴は、歯に物を着せぬ人で、皇帝であろうと率直に進言をしていたと言われています。
そういった側近がいたことで、『貞観の治』と評されるような治世が行われていたとも言えます。
 その魏徴により編纂された隋書には、この列島の姿がかなり正確に描かれています。
 しかし、一方、同時期に姚思廉によって作成された梁書では、この列島に関わる大きな歴史の改竄が行われています。それまでの中国に残る史書は、大陸の王朝からの視点といったこの列島を卑下した表現ではあるものの、この列島の歴史はそのまま描かれていました。ところが、唐代になって、この梁書では、今まで描かれていたこの列島の姿が大きく歪められてしまいました。
 梁書での倭人伝は、そんなに長くはなく、極めてコンパクトにまとめられていますが、今までの中国の史書には全く描かれてもいないこの列島の姿が誕生しています。
 そして、それは、今のわが国の成り立ちとされている『歴史』と極めて酷似しています。
 その基本は、
1)『倭人は、呉の太伯の後と言っている』と描いています。
  この列島には、大陸からあるいは南方から数多くの民族が流れ着いています。それを、中国の流れを汲む『単一民族』といった勢力だとしています。
2)この列島の女王国への道順を直列に描いています。
  魏書では、大陸から女王国へ行く道順にある国々を並列に描いていました。つまり、大陸から来る使者が伊都国に常駐していて、そこから各国への道順を記していました。それを、すべて同一の道順として女王国へ行くとしています。それにより、女王国は太平洋上にあるようなことにされてしまいました。
3)女王国『邪馬壹国』を『邪馬臺国』と描いています。
  いわゆる卑弥呼のいた女王国は、魏書では『邪馬壹国』とあったものを、ここでは『邪馬臺国』としています。それは、勘違いでも書き間違いでもなく、倭王の居するところの『臺』、つまりこの列島の都として描かれています。卑弥呼は、確かに女王ではありましたが、この列島の倭王でもなく、その卑弥呼の地はこの列島の都を意味する『臺』でもありませんでした。
4)卑弥呼が魏へ送った使者を景初3年に行ったと描いています。
  魏書では、卑弥呼が魏へ景初2年に使者を送っています。景初3年の正月には明帝が亡くなっており、その年、魏は喪に服して公式な行事は行われないといった時期に、6月から12月まで逗留していることになります。また、その使者に明帝から卑弥呼への詔書が渡されていますが、亡くなった明帝が書くことはできません。
  その翌年、喪が明けた正始元年、魏が倭王へ送った使者を、卑弥呼への使者と描くための偽装工作だと考えられます。  
5)卑弥呼の次の女王を『臺與』と描いています。
  魏書では、卑弥呼の次に女王となったのは、『壹與』とありましたが、『邪馬壹国』とあったものを、『邪馬臺国』としたことと辻褄を合わせるためでしょうか、『壹與』とあったものを、『臺與』としています。今に残されている歴史にあっては、『豊』とも描かれています。
6)倭の5王を卑弥呼の地に居たと描いています。
  宋書には、この列島の倭王であるところの『讃、珍、済、興、武』が描かれていますが、決して卑弥呼との関連を意味するような記述はありません。それを、まるで卑弥呼の末裔かのように取り込んだ表現で以って描いています。
 これら梁書の基本的な視点は、この列島は倭王と倭女王という2大勢力による統一国家であったという当時の姿を、倭女王であるところの卑弥呼の勢力しかなかったと描くところにあります。
 つまり、魏書には、この列島に『一国』と『大国』による統一国家が誕生した頃の様子が描かれているのですが、その実質的支配国の『大国』の姿を消し去るだけでなく『一国』をも消し去り、卑弥呼の国を、当時のこの列島の都を意味する『臺』だと描いています。
 すなわち、魏書に『有男弟佐治國』と登場する、当時のこの列島の実質的支配者の歴史からの抹殺です。
 卑弥呼を『補佐』していたとされる『弟』であるところの『佐』の王、つまり『すさのお』と後に呼ばれる出雲の大王による支配を歴史から消すところにありました。
 この梁書に示された自らに都合よく改竄する手法による歴史は、その後の唐王朝の歴史認識ともなり、今のわが国の歴史認識の基本、あるいはその『ルーツ』にもなっています。
  



                               

 
  邪馬台国発見

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