唐王朝による列島征服の軌跡
『倭』から『和』へ

 907年に唐王朝が滅ぼされ、王朝貴族が大陸から一掃されるといった事態に陥り、彼らは、それまでに収集していた宝物とともに、その唐王朝の安定した支配下にあったこの列島に流れてくるしかありませんでした。
 そして、彼らは、自らが住まいすることになったこの列島を、過去長年に渡り大陸の王朝から卑下されていた歴史を消し去り、『高貴』な列島に衣替えしました。それは、『大和』という地名にも表れています。『倭』とは、大陸の王朝からこの列島を蔑視した表現で、遠い南海の孤島に住む小さい人々といった意味です。過去、わが国でも、『紅毛人』とか『南蛮人』と卑下したり、また、南海の小民族を『土人』とか、その首長を『酋長』といった表現をしていた時期もあったようです。
 彼らによってこの列島にも、人を蔑視する視点が持ち込まれたのでしょう。
 その彼らは、大陸からこの列島を散々卑下してきた当事者ですから、『倭』の意味するところは、彼ら自身が最も良く知っています。ですから、その蔑視の象徴である『倭』を『和』という文字に変えたのです。中国の史書には、この列島の都を意味する『大倭』という表現が出てきます。つまり、この列島の都を意味していた『やまと』そして『大倭』は、この列島を支配していた出雲、あるいは出雲王朝を意味していたのです。それゆえ、彼らは、自らが支配するようになってからは、この列島の都は、奈良『大和(やまと)』に存在していたとする『新しい歴史』を創作したのでしょう。そこからは、この列島を彼ら自身が卑下していた表現の『倭』を消しています。
 だからといって、この列島の人々を卑下する視点が無くなったかといえば、そうではありません。大陸の王朝による人を5段階で差別する視点に何ら変わりはありませんでした。この列島の人々は、引き続き、実質的には『倭人』として虐げられ、ほとんど獣並みの扱いのままです。
 唐王朝貴族・藤原氏たちのみが、その蔑視から逃れようとするものでしかありませんでした。
 そして、彼らは、このような列島から脱出し、再び大陸の人々を支配し、唐王朝を再興することを硬く決意しました。しかし、それは、簡単に出来るものではなく、しっかりとした、準備工作が必要となります。
 それらの思惑や戦略を、彼らは、古事記に密かに残しています。
 一見、古事記は、この列島の歴史を記した歴史書かその物語のようにも思えますが、藤原氏の勢力が読みますと、それは彼らがこの列島を支配する上での戦略を伝え残した指南書であり、大陸制覇へむけての指令書でもあったのです。
 今風に言えば、藤原氏、あるいは藤原党の『綱領』といったものでした。
 そこには、再び大陸制覇、大陸回帰を究極の目標と掲げる唐王朝貴族の悲願が密かに書き記してありました。
 では、古事記にそれらがどのように残されていたのか検証してみましょう。
  



                               

  
   邪馬台国発見 

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